インカレサークル古武術部

心と体の護身術〜自分と大切な人を守る技術〜

過程↔︎答え

  • 板山

寒いですね。風も強いです。

今日、夜道を歩きながら「これだけ風が強いと、何か飛んでくるかもしれない。気をつけないと」と思ったら、その1秒後に頭に何かがぶつかりました。

コツンと音を立てて。何が飛んできたのでしょうか。

全然関係ないのですが、中学生の頃にこんな事がありました。

ダイエットをしたいから走ろうかなと言っている女子に、ある男子が「走っても歩いても距離が一緒なら仕事も一緒で、痩せる量は変わらない。だから歩けばいいよ」と言っていました。

「え、そうなんだ。それなら歩こう」と答えていましたが、そんなわけがないですね。

この男子の語る「仕事」というのは、W=Fxで表される物理量としての仕事のことです。単位はJ(ジュール)。

たしかに、四角い箱をズルズル引きずるときの仕事は、あまり速度に影響されません。それが人間でも同じ事です。

ところでこの男子は陸上部だったのですが、実感として走った後と歩いた後、同じ距離ならば同じだけの疲労感だったのでしょうか?

成績も学年でトップクラスで頭も良く回る人だったので、あれは不思議でした。

でもこれは実は重要な問題で、「実感を信じるか」「理論を信じるか」という選択は誰にとっても難しいものです。

答えを出す必要はないと思います。

答えを出しても、人間はその出どころを簡単に忘れてしまいます。

ある程度生きていれば、頭の中にはいくつもの知識が存在します。

そのどれか一つを適当に選んで、「どこで知った情報なのか」を思い出すことはできるでしょうか?

思い出せたとしたら、その情報源はどれほど確からしいといえるでしょうか?

自分の持っているその知識に対する「確からしさの感覚」と、その情報源の実際の「確からしさ」は同じでしょうか?

多くの人は、自信を持って「正しい」とは言えない知識を「当たり前の真実」として受け入れていたのではないでしょうか?

もしかしたら、そもそも情報源を思い出せない人の方が多いかもしれません。

例えば僕は、「虹は7色ではないんだよ」と聞いた事があります。

でもそれをどこで聞いたのか思い出せません。

その知識の正当性もよくわかりません。

でも、「虹は7色です」と言う人がいたら僕は「7色じゃないんだよ!」とか言ってしまうかもしれません。

言ってしまってから、「虹を3色だとする文化もあるし、光のスペクトルは連続的だからデジタル的に数える事自体がおかしい」とか、慌てて論理を付け足すかもしれません。

虹が3色だとする文化があることも、光のスペクトルが連続ということも、そもそもスペクトルという言葉の定義自体も曖昧なまま語る事ができます。

語ったら自分の言葉には責任が生まれますから、それを訂正することは困難です。

答えはどうでもよくて、その過程こそが大切だと思います。

人生も宇宙も、いつだって計算途中です。

答えを出すために生きているのでしょうか?

1×2×3×4×5×6×…×100=93326215443944152681699238856266700490715968264381621468592963895217599993229915608941463976156518286253697920827223758251185210916864000000000000000000000000

になるのだそうです(笑)

100の階乗の値です。Yahoo知恵袋から引用しました。

もしも宇宙がこのように、1から100までかけ算していく過程だとして、いつかこの巨大な数値を出すことが目的だとします。

1がビッグバンで、100が宇宙の終わりだとしましょう。

今の自分は20くらいでしょうか?

「1から20までかけ算したぞ。あとどれだけ続くのかな」と必死に生きているのが僕らです。

もしも答えがあるとして、宇宙の終わりと共に上記のあの巨大な数字が出てくるとします。

すると、その数字と今以外の全ての数字を使って、「今=20」という答えを逆算する事ができるようになります。

どういうことかというと、一連の計算の中で、どこを答えとするかは自由に選べるということです。

簡単化して、1+2=3という式を考えます。

1がビッグバン、2が今、=が世界の終わりで3が答えだとしましょう。

1と2から3を導くのが計算ですが、同時に3と1から2を逆算することもできます。

順番は関係ないわけです。

これから先の未来は全て、今という瞬間を導くための計算なのかもしれません。

僕たちは答えを出すために生きているのではなくて、今が答えで、これまでとこれからが途中式なのかもしれません。

だからこそ僕は、答えなんてどうでもいいと思うわけです。

過程が大事とはいえ、上記の理論的には過程ですらないのかもしれません。

今が全てといったらその通りだと思います。

過去も未来も今の連続ですから、時間の流れによって今に貴賤は生まれません。

だからこそ、未来のために今を犠牲にするのはおかしいですし、過去の出来事のせいで今が縛られるのもおかしいはずです。

宇宙が終了して、それを外から眺めない限り、答えなんてどこにもありません。

無いものを有ると信じるのがカルトですから、「自分は答えを知っている」「どこかに正しい答えがある」という妄想は危険だと思います。

ですから、実感と理論のどちらを信じても良いのですが、重要なのは思考を止めないことです。

「痩せたい!」と思うのならば、ウォーキングでもランニングでもすれば良いわけで、やっていればすぐにランニングの方が疲れるし息が切れるし汗をかくことに気付きます。

そうすれば理論を見直すことができます。

「この疲れは乳酸が出ている証拠かな?息が切れるということは、酸素を使っているということか。また、呼吸筋も強く働いているはずだ。汗をかくということは、それだけ熱が発生しているということか」

これらは全て、エネルギーを大量に消費している証拠です。

そこでふと思うわけです。

「仕事が同じなのに、なぜエネルギーの消費量が違うのだろう?」

そして思い至ります。

「走るって上下運動だから、単なる横移動として仕事を計算してはいけないのでは?」

「そもそも仕事はエネルギーの消費量を表す物理量ではないのでは?」

こんな感じで思考を止めなければ、変な思い込みに囚われずに済みます。

理論も実感もどちらも活用して、軽やかに変化していきましょう!

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