インカレサークル古武術部

心と体の護身術〜自分と大切な人を守る技術〜

馬を水を飲ませる

  • 板山

最近、こんな言葉を聞きました。

「馬を水辺に連れて行くことはできるが、馬に水を飲ませることはできない」

ちょっとググってみたら、イギリスのことわざらしいです。

指導者は生徒の成長を助けることはできるが、実際に成長するのは生徒自身の努力によるものである。
というような意味だと思います。

僕はこの言葉を指導者側のある方から聞きました(古武術部とは無関係の方です)。

で、ちょっと嫌な言葉だな、という感想を持ちました。

なぜ、生徒は馬なのでしょうか?

その先生が連れて行った水辺というのが、自分だったら絶対に飲まないような(馬用の)汚い水辺だった可能性はないでしょうか?

そもそも、喉が渇いていない馬に水を飲ませようというのは、ただの飼い主のエゴではないでしょうか?

とはいえ、素直に受け取ればこの言葉はその通りな気もします。

生徒としての立場からの話です。

やはり、稽古をしていると、どうしても先生というのは必要だと痛感します。

先生に水辺に連れて行ってもらって初めて、自分が喉が渇いていたことに気付いたりもします。

ただ歩くことも、水を飲むこともままならないので、その都度サポートが必要だったりもします。

サポートがなくてもいずれは水を飲めるのかもしれませんが、それまで生きていられる保証もありません(干からびます)。

そして重要なのは、ことわざの通り、水を飲むのは自分自身であるということです。

病気だって、治すのは薬でもお医者さんでもなく体の自動修復機能です。

整体でボキボキやるのも、結局は体が整うサポートをしているだけで、快適な姿勢を実現するのは本人の筋肉なのでしょう。

どんな希代のマジシャンだって、観客に脳みそが無ければイリュージョンは起こせません。

稽古をすると自分で決めたのだから、自分で成長するしかありません。

それは勉強でも何でも同じことだと思います。

馬に水を無理矢理飲ませることは、正直できると思いますが、それを馬が期待するのは意味不明です(危険とすら思います)。

指導者がいないとおそらく成長できないけれど、実際に成長させてくれるのは自分以外にいないわけです。

同じところをぐるぐる回って抜け出せないような、そんな努力から救い出してくれるのは指導者かもしれません。

でも、ぐるぐる回る間に鍛えられた脚力は、その先に進むためには必要かもしれませんし、それは自分の努力でしか身に付かないもののはずです。

そんなわけで、最近耳にしたイギリスのことわざについて思ったことを書いてみました。

このように考えてみると、なぜ本を読むのかとか、どのように練習していけばいいかとか、成長に関するヒントが色々見えてくる気がします。

ちょうど、稽古と自主練習の役割について最近考えていたので、参考になりました。

でもやっぱり、ちょっと嫌味なことわざです。

実際に使われるときは、「だからあの生徒は見捨てろ」という意味が多いのだと思います。

それは間違いではないのでしょうが、個人的には「その分、もっと意欲のある生徒に時間をかけることができる」というポジティブな面にフォーカスするのが好きです。

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